堺市中区の区画整理がされた住宅地の中に、奈良時代の僧・行基が創建した大野寺の仏塔と伝えられる土塔が残されています。
この土塔そのものは国史跡となっていますが、その西と南とを囲むように土塔町公園の区域が設定されています。
府道沿いには磚敷きの広場のようなスペースが設けられており、寺院のような門が設けられています。
単に公園への導入部としてそれっぽく仕上げているのか、発掘調査に基づいて復元整備されているのかはよく知りません。
門のところまで行くと、広場の向こうに土塔が見えてきました。
門を潜って中に入ると、こんな風に見えてきます。
手前の草っぱらが公園の広場で防災施設なども設置されていますが、史跡としての景観も壊さないように、おおらかな整備がされています。
園路に沿って歩いていくと、すぐに復元整備された土塔です。
一辺50m以上の四角錐状に土を盛って作られた十三重の土塔は、元々は全体が瓦葺きだったものですが、現在は二辺は瓦葺き、もう二辺は芝敷きで復元されています。
現地の解説板より「史跡土塔」
土塔は、堺出身の奈良時代の僧、行基が建立したとされる四十九院のひとつ大野寺の仏塔です。平安時代の『行基年譜』には神亀4年(727年)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵伝」にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれています。発掘調査によって土を盛り上げた一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、各層には瓦が葺かれていたことがわかりました。また、『行基年譜』の記述と同じ「神亀四年」と記された軒丸瓦も出土しています。現在の姿は全体を盛土で保護し、12層まで復元したものです。土塔から北西約160mのところには土塔に使われた瓦を焼いた窯跡が2基見つかっています。また、約460m北方には行基が天平13年(741)以前につくった「薦江池(こもえいけ)」ではないかと考えられる「菰池(こもいけ)」というため池もあります。
こちらが芝敷の面。
手前にある模型のように、かつては頂上に建物が載っていた可能性が考えられるそうですが、発掘調査でもハッキリしたことがわからなかったために、頂上の十三層目は実寸での復元整備はされていません。
現地の解説板より「土塔の復元」
発掘調査では13層の形状が明らかにならなかったため、ひとつの可能性をこの模型で示しています。12層には直径約6mの円形に粘土が並んでいたことから、13層は饅頭形の土壇の上に八角形の木造建物を復元しました。また、出土した遺物から木造建物には陶製の相輪があったと考えられます。建物の形状は、法隆寺夢殿(奈良県斑鳩町)や栄山寺八角堂(奈良県五條市)、室生寺五重塔(奈良県宇陀市)を参考にしています。
こちらは築造時の状態を展示したという施設。
窓の向こうに、実際に発掘された状態を転写したという展示を見学できます。写真に取ると反対側が写り込んでしまうので、何かわかりにくくなるのが困りものですが。
土塔の盛土工法
土塔は土を盛り上げてつくられています。はじめに地面を水平に整地し、タテ30cm、ヨコ20cm、厚さ10cm程の大きさに揃えた粘土の塊を、各層の輪郭となる位置に並べて 正方形の枠をつくります。この枠の中に土を詰めた後、さらに枠を積み上げて上層をつくるという作業を繰りかえしています。ここに展示しているのは、西面の6層から9層にかけての断面を転写したもので、積み上げた粘土が土塔を上下に貫く柱のよう見えます。
ここの解説板が、クチナシの植え込みに囲まれてクリスマスリースのようになっていたのは、さすがに読みにくいので刈り込んだほうが良いでしょう。
さらに土塔の周りを歩いていくと、東南側には発掘調査当時の姿を保存展示しているという一角もありました。
言われないと、大雨で崩れたようにも見えますが、この状態から調査をしていって左の瓦葺き状態を復元するまでに至ったのですから、関わった皆さんのご苦労が偲ばれます。
さて、史跡の区域を少し離れると、南側には大きな池があって、周りを一周できるようになっています。
この池が、土塔と関係あるものなのかは現地にも解説が無くよくわからないのですが、池の名は大門池と言うそうなので、何かしら関係があるものなのでしょう。
園路沿いにある休憩所の屋根も、なんとなく土塔風。
ついでに言うと、園内にある区画整理の記念碑も土塔風。
そう、史跡にばかり目を奪われていましたが、ここが区画整理事業で作られた公園だということも忘れてはいけません。
ということで、東端の住宅地に接する一角には、ここまでの公園の姿とはまったく無関係な、遊具コーナーも設置されています。
滑り台、2連ブランコ、揺れる乗物遊具、雲梯などがあり、ここだけでも単独の公園として成り立つ程です。
学習にも遊びにも、そして防災にも役立つ土塔町公園でした。
(2023年6月訪問)
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