2471/1000 小川公園(京都市上京区)

2020/07/01

京都市上京区 京都府 公園地蔵 身近な公園

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京都には「小川珈琲」というコーヒー屋さんがありますが、それとは何の関係もない小川公園。園名板は、旧称の小川児童公園のままです。

京都の公園には当たり前のようにお地蔵様がいます。公園の内側を向いている場合と、外の通りを向いている場合とがあるのですが、ここは外向き。

資料によれば開園は1954年(昭和29年)とのことで、ケヤキの大木などは、そのころから60年以上育ってきたのではないかと思われます。

園内の施設は、さすがに60年は経過していないと思いますが、それでもまぁまぁ古いものが多いようです。

コンクリートボディの滑り台は、他の地域であれば40~50年は経過しているのですが、京都市では今も新設されているようなので、新旧が掴みづらいアイテムです。

ジャングルジムやブランコも、60年以上使っていると言われればそう見えるし、まだ40年だと言われればそう見える、くらいの古さ加減です。少なくとも、平成に入ってからのものではないですね。

シーソーは、木製の座板は何度か交換しているでしょうが、鋼製の支点部分はずっと使っていそうです。

トイレも単純な建物なので、60年くらいは使っていそうです。

手前の旧・水施設は、きっと開園当時のものでしょう。
蛇口や受け皿がなくなっていますが、水飲み場だったのではないかと思います。

もっとも「新しい、古い」などを気にしたところで、しょせん公園など近代以降100年か150年の話ですから、京都の歴史の中では些細なことです。
なにしろ公園の隣にある小川通は、中世にはこの通りのすぐ西に小川(こかわ)という川が流れており、もう少し西を流れる堀川とともに、応仁の乱の東西両陣営の軍事境界線になっていたそうです。

2016年に発刊された呉座勇一さんの『応仁の乱ー戦国時代を生んだ大乱』がヒットしたせいでしょうか、界隈では中世京都に的を絞った解説板が建てられています。
ここ小川公園は東軍を率いた細川勝元の邸宅に隣接するそうで、その旨が記されてました。

■現地の解説板より「応仁の乱と細川勝元邸」
戦国時代の幕開けとされる応仁の乱は、応仁元年(1467)に勃発した。正月の御霊の森(現在の御霊神社境内周辺)の戦いに始まり、5月には山名宗全を大将とする西軍と細川勝元を大将とする東軍とが上京を中心に激しい戦いを繰り広げた。西軍・東軍は堀川や小川を挟んで対峙したが、西軍の拠点であった山名宗全の邸宅周辺は「西陣」として現在に名を残しているのに対して、東軍の細川勝元の邸宅は、この説明版がある小川児童公園の北側一帯にあったと考えられている。
応仁の乱後に復興した戦国時代の京都の景観を活写する『上杉本洛中洛外図屏風』では、上立売通北側・小川通東側から東に眺めた細川氏の邸宅「細川殿」がひときわ大きく描かれている。築地塀に囲まれた邸宅内には、廊下で結ばれた杮葺きの建物が軒を連ね、多くの人々が行き交っている。また、南部に広がる池や庭石を配した庭園では紅白の梅の花が咲き誇り、水鳥が遊んでいる。細川勝元が暮らした邸宅のようすを今に偲ぶことができる情景である。

公園の北側一帯というと、この家並みの向こうがずっと細川邸だったわけですね。

今も京都の地名に残る西軍の「西陣(にしじん)」と比べて、なぜか「東陣(ひがしじん)の影が薄い理由を知りたくなる小川公園でした。

(2010年6月訪問)

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