兵庫県播磨町にある「であいのみち」は、かつてこの地を通っていた別府(べふ)鉄道土山線の廃線敷を利用した緑道です。
JR土山駅からNo.1150 大中遺跡公園までの約1キロが緑道となり、大中遺跡の中に入っても跡地が園路として表現され、遺跡公園から先は一般道になっています。
土山駅前の広場は「であいのみち」には含まれないのですが、最近の駅前再整備で、コンセプトを参照したかのようなモニュメントが設置されました。
別府鉄道の車輪、あるいは線路のような鉄の輪の中に、古代をモチーフにした透かし彫りのようなモニュメントが並びます。実際に彫っているわけではありませんが。
これがいくつか続いた後、駅前広場から道一本を渡ったところから、であいのみちが始まります。
冒頭で「コンセプトを参照したかのような」と書いた、元々であいのみちに設置されていたモニュメントがこちら。
線路の鋼材を使ったかのような円形のモニュメントの上の方に透かし彫りのようなものが入っているのですが、これが駅から大中遺跡に向けて、明治時代から古代へと遡っていくというようにいくつも設置されています。
入口にあるのは幕末~近代、中央にいるのは播磨町出身で日本で初めて新聞を発行したジョセフ彦こと浜田彦三です。
でも気づいたのは、ここが明治で、先へ進むにしたがって古代へと遡っていくのであれば、その手前にあった駅前広場のモニュメントは、古代ではなく明治よりも後の時代、すなわち別府鉄道があった昭和時代の方が良かったのではないかということです。
そんなことを考えながら緑道を西へと進みます。
といっても、基本的に歩道幅3メートルほどの緑道が家々の間をずっと続いているだけなので、さほど景色の変化はありません。
それだけに、時々出てくるモニュメントがよく目立ちます。これは江戸時代の参勤交代の図。
これは戦国時代。それぞれのモニュメントの横手には小さな解説板もあるのですが、いちおう播磨町地域に結びつくような内容になっていて、ここでは透かし彫りには入っていない(と思う)黒田官兵衛や別所長治に触れています。
ところどころに、播磨町とは直接関係のない歴史的事件を刻んだモニュメントも設置されています。こちらの方は足元にあるので、線路を材料にしていることがよくわかります。
この調子で、どんどんと時代をさかのぼっていきます。下写真は平安時代。
途中には、いくつか別の公園が隣接している箇所などもあるのですが、それはまた別の記事にしようと思います。
奈良時代まで来ました。
そして古墳時代。
古墳時代から少し先へ進むと喜瀬川を渡る橋が架かっており、渡った先がNo.1150 大中遺跡公園です。
大中遺跡公園の園路も「であいのみち」の一部になっており、公園の西端まで通じています。
下写真は西端から園内を振り返ったところ。
そして園外へと目を向けると、ここから先は加古川市域。
「自治体が変われば、廃線跡の取り扱いも変わる」ということで、遊歩道ではなく、ありふれた2車線道路に変わります。
駅から遺跡公園まで楽しく歩ける緑道「であいのみち」でした。
(2019年12月訪問)
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