現地の案内板によれば、「江戸時代はじめは魚屋が立ち並ぶ町だったものが、江戸時代中期以降は花街へと姿を変え、明治に入って姫路城内に陸軍が駐屯するようになると界隈はますます賑やかになった」とのことですが空襲で壊滅、戦後になって復興土地区画整理事業が実施されて、現在のような街なみになりました。
町名としての魚町からは一筋外れるのですが、繁華街としては一体の塩町にあるのが城南公園。上述の区画整理事業で生みだされました。
区画整理事業地らしく、また繁華街らしく、非常に整っていると言えばそうですし、味気ないと言えばそうとも見える小公園です。
とは言え、区画整理は土地所有者の皆さんの多大な努力と協力があって成し遂げられるものなので、その記念碑は欠かせないものでしょう。
碑銘は「親和」。事業完了までの調整ごとの苦労が滲み出たかのような言葉です。
トイレの外壁も、なんだか希望に満ち溢れた壁画で彩られています。
そしてもう一つ、区画整理に関連して町名変更などが行なわれ、江戸時代以来の町名が姿を消すことの記念碑もありました。
■旧町名記念碑 城南地区
姫路復興土地区画整理事業が昭和59年9月に完了し新たに町界町名を統廃合したことにより廃止した由緒ある町名を永久に記念するためここに碑を建立する。
旧町名 新身町、加納町
昭和62年3月 姫路市
旧町名の「新身(あらみ)町」が気になったので、後日『新・姫路の町名』(2007,播磨地名研究会編著)で調べてみると、「新身は、新たに鍛えた刀であり、新刀を売る店があったので町名となった」とありました。魚屋とか刀屋とか、近いところに色々と混じっていたのでしょうか。
園内には、そのほかになんとなくステージ状ですが普段は入ってはいけない場所や、
取って付けたようにポツンと置かれた揺れる動物遊具などがありました。
今ひとつとらえどころのない城南公園でした。
(2018年12月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿