そんな安田にある安田公園。区画整理然と、整った形をした小公園です。
四角い敷地のうち3/4ほどを広場とし、残りの1/4に遊具を集めた施設配置になっています。
遊具は滑り台、4連ブランコ、ジャングルジム、シーソーなどオーソドックスなものばかりですが、数は充実しています。
また、少し離れた東屋の周りにも揺れる動物遊具が置かれています。
そして、私が各地の公園を訪ねる時は、なにかと花の季節から外れていることが多いのですが、ここはフジの花が美しい時期に訪ねることができました。
もっとも、藤棚そのものは、それほど大きいわけでもないのですが。花が綺麗だったから良し。
このように落ち着いた雰囲気の安田公園ですが、西隣にある鞆田神社の沿革を読むと、おそらく社殿が再建されたという昭和37年(1962)ごろに付近の区画整理事業が始まって神社や公園の外枠が固まってきたのではないかと思います。
■現地の解説板より「安田と鞆田神社」
安田は戦国時代に播磨国総社の氏子村として現れる。江戸時代には城下と飾万津を結ぶ道沿いが町場化し17世紀中頃までに在町の安田町が形成され、飾万津20町の一つとなる。明治9年安田町・安田村は合併され、同22年安田は手柄村の大字となり、昭和11年に姫路市の大字となる。
鞆田神社は河川の氾濫で約4キロメートル北の「桑原村」(西中島に桑原・友田の字がある)から友田(現東延末1丁目の駅南大路西辺)に漂着した御神体を鞆田大明神として祀ったことが始まりという。その後、堂ノ前(現東延末町3丁目の駅南大路東辺)に遷座し、元の場所は本宮または猫山と呼ばれた。明治に至り社名は友田神社とされ村社となった。さらに若宮ノ森(現安田1丁目の駅南大路辺)にあった若宮明神が合祀され境内社「八幡社」になった。
明治30年社殿が消失し同年中に再建されたが、戦後は社殿が荒廃していたので、昭和37年、現在地に社殿を再建し、昭和57年に社名が鞆田神社に改められた。祭神は市杵島姫命。境内には文久元年(1861)の手洗石が残る。
平成16年12月 姫路市教育委員会
公園の南側に祀られている「夜啼地蔵」も、地区の歴史を示すものです。
下写真の右側が夜啼地蔵、左側が明治「40年の地蔵像」のようです。
■現地の解説板より「夜啼地蔵」
宝暦10年(1760)に成立した『播陽万宝知恵袋』所収の「国衙巡行考証」に、応仁2年(1468)に敵討ちの武士に父を殺され母を奪われた乳飲み子が、母の尊崇していた地蔵に夜な夜な乳を呑ませられ泣いていたことから夜啼地蔵と云われたとある。傍らには明治40年の地蔵像や江戸時代の茶士・良故順誉の供養塔と思われるものがある。
平成15年12月 姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会
付近はそこそこ繁華な地区なのですが、どこかゆったりとした時間の流れる安田公園でした。
(2018年4月訪問)
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