その龍泉寺のすぐ隣にあるのが不動公園。ですので、公園の出入口と目黒不動の出入口とを間違えないように道標が建てられています。
ちなみに、道標に従って坂道を上がっていった先は目黒不動の裏口っぽい門で、毎月28日の縁日以外は閉まっているようです。
もともとからして、公園用地は龍泉寺と隣地にお住まいだった益田弘氏からの土地の寄付を得て開かれたものだそうで、その経緯が刻まれた記念碑が園内にありました。
目黒区では、碑文谷、清水池の両公園と並んで最も古い公園の一つということになります。
■目黒不動公園沿革
目黒不動尊龍泉寺は由緒ある古名刹にして其境内は夙に行楽の地として知らる。
昭和7年大東京実施の頃、不動尊境内を中心とする公園開設の議起りしか會會
隣地益田弘氏は其邸地一千余坪を挙げて不動尊へ寄進の志あり 仍て本市は寺と協議を遂げ、邸地は之を市公園用地として受領し境外地千四百余坪を併せて目黒不動公園とし保険休養と児童遊園の設備を施すこととせり。
今施設成りて開園するに当り其由来を記して龍泉寺並益田氏の芳志を後世に伝ふ。
昭和9年12月 東京市
地形的には、目黒川と羅漢寺川(現在は暗渠)という2本の河川によって削られた台地端にあたっており、頂上部に目黒不動が、北向き斜面地に不動公園があるという構造となっています。
こうした立地は古代から人が集まり住んでいた場所になりがちということで、この公園の下にも「目黒不動遺跡」と名付けられた縄文時代、弥生時代の建物跡が埋まっているそうです。
●目黒区HPより「目黒不動遺跡」
目黒不動遺跡は、目黒川と羅漢寺川を望む台地上に立地する遺跡です。
これまでの調査で、縄文時代と弥生時代の竪穴住居跡や土器などが発見されています。
縄文時代中期(約5000年前)の竪穴住居跡は18軒発見されています。このうち、区立不動公園で発見された竪穴住居跡は、調査したのちにそのままの状態で埋め戻しています。また、この遺跡から出土した、まじないに使われたと考えられる土版は、都内最古級の資料として注目されています。
弥生時代後期(約2000年前)の竪穴住居跡は、火災を受けていて、出土した炭化物の分析から、クヌギの木が使われていたことが分かりました。また、土器づくりに使うための白色粘土が住居の中から見つかりました。
さて、そういった地形・背景を持つ不動公園。斜面地にありますので、敷地内は大きく2段に切り分けられています。
まず上段は、冒頭に掲載した出入口とは別のメインエントランスがあり、石貼りのエントランス広場に、小さな噴水・流れがあります。
エントランスを通り抜けた先は25メートル四方くらいの土敷きの広場になっています。
少し面白いのは、目黒不動との間を通る細道から上段広場に向かって、どこからでも入れる階段がたくさん付いているところ。ちょっと腰掛けるのにも便利で、なかなか良い構造です。
園内から階段を見たのが、下写真。
奥に見えるのは、目黒不動の寺叢林です。
上段広場の一辺には、横に長い複合遊具があります。
がしかし、ところどころに「ただ繋いでいるだけ」のパーツが散見され、全体的にはよくわからない構造だと言えます。
まず、パーゴラと繋ぐ横棒からして、よくわからない。物干し以外には使いみちが思いつきません。
その先にはブランコがあるのですが、先ほどの横棒はブランコの支えの横棒と同じ高さですので、まさかぶら下がり背伸ばしでもあるまいに。
次に滑り台があるのですが、そこから先がまた同じように横棒だけになっています。
ずっとこの調子。つくりが華奢なので、もとあった何かを外した跡にも見えません。純粋な装飾なのでしょうか。
さて、ブランコの横手にあったパーゴラに戻ります。
ここが上段の端にあたり、下段側を見下ろす場所に、よくフジが絡まったパーゴラと、休憩用のベンチなどがあります。
そこから見下ろす下段部とは、大きなガケ滑り台で繋がれています。
ガケ滑り台を下から見上げたところ。急勾配&幅広で、かなり存在感があるガケ滑り台です。
さらにガケ滑り台の横には砦遊具も付けられており、高低差を存分に活かした遊具構成となっています。
また反対側の横手には、品種などは知りませんが枝垂れの牡丹桜がきれいに咲いており、園内の風景に彩りを添えていました。
そして下段側なのですが、こちらも上段と同じような土舗装の広場となっています。
その中で圧倒的に目立っているのが、大きく育ったマツ。20メートルくらいはあるでしょうか。写真ではマツの陰になっていますが、奥にあるヒノキも15メートルくらいはあります。
おまけ程度に保存された国旗掲揚台よりも、マツと滑り台の存在感、そして横棒の謎が記憶に残る不動公園でした。
(2018年3月訪問)
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