ここも関東大震災からの復興でつくられた小学校と公園が一体となった学校公園としてスタートしていますが、現在は隣が中学校に変わっており、特段のつながりもない構造になっています。
園内でまず目につくのは、西寄りの一角に祀られた八幡神社。
公園内に小さなお社や祠があることは珍しくないのですが、ここは神泉風の流れもあって、かなり本格的に神社になっています。
また拝殿の裏側には壁のようにそびえる巨岩があり、一見するとなにやら曰くありげな岩座のように見えます。
が、横に回ってみると「壁のようにそびえる」のではなく、まさしく倉庫の壁そのものだったというオチが待っていました。
少し高さがあるので、公園の倉庫ではなく神社の神輿庫あたりではないかと思います。
八幡神社の標柱の横手には、「史蹟 旧加藤邸久森山跡」と刻まれています。
この公園がある一角は、江戸時代には伊予大洲藩・加藤家の江戸上屋敷があったようなので、それを記念しているのはわかるのですが、「久森山」がわかりません。
いつも本ブログがお世話になっている日文研の所蔵地図データベースで、明治に入ってしばらくした頃の地図を見ると、加藤邸には池泉式の庭園があるので、その中にあって八幡神社が祀られていた築山が久森山だったのでしょうか。
日文研所蔵地図データベースより 1884年(明治17年)「東京図測量原図 (内題)東京府武蔵国神田区佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」 |
もう一つ園内で目立っているものと言えば、公園の西南の入り口にある、なにを形どっているのかはわからない像でしょうか。
碑文によれば、オペラ歌手・藤村梧朗の死を悼んで建てられたものだそうです。
■碑文より
オペラの名手として大正期、天下の子女の血をわかせたる
熱と義と愛の人 藤村梧郎
一九五五・一・一八ここに昇天す
即ちこの処より平和の歌声高らかにあがるしるし
人間の 愛 愛 愛
碑文に「ここに昇天す」と書かれているので、晩年は不遇で公園で行路死でもしたのかと思って調べてみましたが、とくにそういうことでもなさそうです。
さて、その他の園内の様子はと言えば、東西に長い長方形の敷地の中央にパーゴラを置いて敷地を二分し、東側に子供向けの遊具を集め、西側はもっぱら高木を整然と並べた広場になっています。
遊具広場は、どちらかと言えば幼児向けのものが中心。
複合遊具も背が低めで、幼児の遊びに適したものです。
ブランコは、2連の幼児向けタイプ。座板式の通常タイプは、西の林の下に別に置かれています。
あとは大きな砂場、揺れる動物など。
一方、西側の林は、訪れたのが冬なのでスッキリしていますが、夏場は木陰が多くて気持ちが良さそうな雰囲気です。
ということで、座り場所も充実しています。
あと、西側には区画整理の記念碑なんかもあります。
江戸時代からの歴史の積み重ねを感じられる御徒町公園でした。
(2018年1月訪問)
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