さいたま市大宮盆栽美術館HPより引用 1935年(昭和10年)頃発行の「昭和名所盆栽村」マップ |
現在の行政区画としては盆栽町と言いますが、これの歴史も古く1942年(昭和17年)には町名が誕生しているそうです。
そんな盆栽町の中心にお社があり、その西側に緑地があります。現地ではお社の名も緑地の名も不明なので、とりあえず「盆栽町の中央にある緑地」と呼びます。
これが都市にしては不思議な空間で、公共空地であるように見えるのですが、取り立てて市の管理を示すような標識などはなにもありません。また周りの道路と明確に区切る柵、園路などもありません。
神社との間の道は、「かえで通り」と名付けられた散策路風の道路ですが、ここから緑地へもスーッと入っていけます。
ところどころで道際の草を刈り残すことで、なんとなく人の出入りをコントロールするようなスタイルです。
園内にはスギ、クス、カエデ類、サクラなど様々な樹種が植えられており、ちょっとした見本園のようになっています。
また地面にロープが張られており、なにかしらの区分がされているようなのですが、それが何なのかがわかりません。
一方、かえで通りを渡った所にある神社も、祠よりもずっと大きな記念碑、さらに大きな集会所が並んでおり、本来からの神社というよりは、当初のまちづくりにあたって勧請された社を中心とした公共空地として扱われてきた様子が伺えます。
こちらが祠よりも大きな手水舎、そしてそれらを遥かに上回る大きさの記念碑です。
記念碑は、盆栽村の設立にあたって先導的な役割を果たした植木商である瀞庵清水利太郎の功徳を讃えたものです。
●現地の解説板より「留芳 清水瀞庵翁紀功碑」
清大園主清水翁、名は利太郎、瀞庵と号す。
明治7年3月27日東京千駄木に生まる。藤吉の長子なり。家世々盆栽を業とす。
翁乃ち業を次、精勵究め尽して卓然として、斯界の重きを為す。然り而して翁夙に都門塵裏盆樹栽培に適せざるを憂え、郊外絶好の地域を求めんと欲し、百方探査爰に年あり。
時に大正14年3月此の地を卜し率先居を移し、自ら荊棘を拓き孜孜營々として私かに大成を期す。偶ま鈴木樂三道、加藤留吉、西村勝蔵諸子の協力を得、業礎堅確となる。遠近風を望んで来たり加わり、遂に盆栽村の今を実現し、斯界注目の存在するところとな。是れ実に翁の先見の明と人の輪を得しに由る所、蓋しし其の広大なりと言うべし。
茲に10週年記念に当り、有志相胥い碑柱を伊予に求め、礎石を笹子渓谷に采めて之を建て以て同志欽仰の微衷を表すという。
昭和10年3月 小野鍾山題字文並書之
清水翁の遺徳をもって、盆栽町の中央に不思議な落ち着きを生み出している緑地でした。
(2017年12月訪問)
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