現地の解説板によれば、公園敷地はもともと松山城の外堀(土器堀:かわらけぼり)の一部でしたが、1955年(昭和30年)に埋め立てられて公園になったそうです。資料によれば公園の開園は1964年(昭和39年)です。
■現地の解説板より「土器堀(東雲公園)」
東雲公園の土地は、「土器堀」と呼ばれ、もともと松山城の外堀の一部でしたが、昭和30年に埋め立てられて公園になりました。
外堀は、松山城の防備のひとつで、土塁と一体的に設けられていました。土塁は、堀を掘った土を積み上げたもので、「砂土手」と呼ばれていました。公園の南側が今も高いのはその名残です。
外堀の工事は、慶長18年(1613年)頃から始まり、御用商人の府中屋念斎が担当したことから、「念斎堀(ねんさいぼり)」とも呼ばれていました。また、別名「薬研堀(やげんぼり)」などとも呼ばれていたようです。なお、この工事は、元和元年(1615年)におきた大坂夏の陣によって豊臣氏が滅亡したのを機に、中止されたと伝えられています。
この外堀と土塁は、松山城の古絵図にも描かれており、それによると、現在の東雲公園から東へ延び、持田町から南へ松山東高校の西側をとおり、松山商業高校付近まで続いていたようです。
※御用商人とは、江戸時代に、幕府や大名・旗本などに特権をみとめられ出入りしていた商人のことでさまざまな用務に応じて商品などを納入していました。
※薬研堀とは、一般的に堀底の断面の形がV字形の堀のことで、漢方薬を粉末にする際に使われる薬研という道具に以ていることに由来しています。
松山市・松山市教育委員会
現在の公園は、いかにも堀跡らしい東西に細長い敷地で、保育所と隣り合わせになっている東1/3が遊具広場、中1/3が土敷の広場、西1/3がエントランスにあたる空間になっています。
遊具広場は、古くからの石の山遊具と、比較的最近に設置された複合遊具、クライミング遊具などがあります。
まず古参の石の山遊具がこちら。
砂場、プレイウォールと一体となった大ぶりなうえ、金属製の滑り台も付けられていてなかなか豪華な仕様です。
それに取って代わろる勢いの複合遊具は、お城をモチーフにしたもの。
シャチホコ、手裏剣など、外国映画に出てくる日本イメージのような装飾が cool です。
これは本ブログでは「百目」と呼んでいる遊具。水木しげるの描く妖怪・百目を連想させるところから名づけました。No.456以来、およそ2年ぶりの登場です。
両手を広げたピエロのブランコ。
揺れる乗り物遊具などもあります。
遊具広場の充実ぶりと比べると、中ほどの広場、西側のエントランス部はやや地味な感じがします。
それでも訪れた時には西エントランスにアジサイがきれいに咲いていて、梅雨の終わりを彩っていました。
おまけ
冒頭で紹介した解説板に、「公園の南側が今も高いのはその(堀の)名残です」と書かれていましたが、それと関係あるのかないのか、南側の家の擁壁には、かわいい魚模様の飾りが付いていました。
(2015年7月訪問)
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