戦国時代の終わり頃、織田信長から越前国を任された柴田勝家は、北ノ庄(現在の福井市)に城を築いて領国支配の拠点とします。しかし、この城は賤ヶ岳の戦いの後に勝家とともに焼失し、江戸時代になってその跡地に新しい北ノ庄城が築かれます。
さらに20年ほどたって「北ノ庄」という町の名が「福居(福井)」に改められたため、新城も福井城と呼ばれるようになりました。
新城は勝家の城を覆い尽くすように築かれているために、勝家の城の詳細はまだわからないことが多いのですが、その本丸推定地とされているのが、現本丸から500~600メートルほど離れた柴田神社の付近です。
ここでは都市公園としての柴田公園と、隣接する北ノ庄城址とが一連のものとして整備されており(さらに言えば神社境内もひと続き)、現地の園名板や市のHPでは「北ノ庄城址・柴田公園」と呼んでいます。また、日本の歴史公園100選には「北の庄城址公園」として登録されています。
まずは柴田公園。
隣接する北ノ庄城址が平成13~15年度の整備なので、その時期にあわせてリニューアルされたものと思われます。
園内は、ベンチなどがわずかに置かれた多目的広場と、ブランコなどのある遊び場とで構成されます。
とくに歴史的な色合いを感じさせるような施設内容ではなく、どちらかと言えば歴史資源である北ノ庄城址をサポートする役割、地元利用やイベント利用などを意図しているようです。
ブランコの背景に写っているように、外周柵はいちおう城の土塀風に作られているのですが、その上に竹垣が飛び出していてわけがわかりません。和風なら何でも適当に並べておけば良いというものではないと思います。
一方、北ノ庄城址として発掘・整備されているエリアに入ると、そびえるのは天守の想定復元模型。一説によれば安土城を凌ぐ9層の天守であったと言います。
とは言え、この模型は無駄にでかすぎ。小さな公園の中で存在感が突出しており、他の展示や神社と調和する気がまったく感じられません。
また発掘調査で明らかになった遺構も復元・展示されています。
これは堀跡。
こちらは門跡の礎石表示。
しかし狭い区域の中に、遺構展示、復元模型、休憩所などがあり、その中を遺構をまたぐようにデッキ通路が通っているために迷路みたいになっていて、あまり落ち着かない空間です。
城跡の動線と現在の見学動線が合っていないところも、往時の姿を思い起こさせない一因であるように思います。
柴田神社の拝殿前には、瓶割り柴田のエピソード紹介、勝家、お市の方、茶々・初・江の三姉妹の銅像などがあります。
■瓶割り柴田
元亀元年(1570年)南近江に侵攻した織田信長は、長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置した。城を奪われた六角家は奪還するべく大軍で攻め寄せ、勝家は籠城して必死に耐えた。
しかし、その間に水路を絶たれ絶体絶命の窮地に追い込まれた勝家は、味方に瓶の中の水を飲ませた後、瓶を割って己の邪念を打ち砕き、強い信念を持って皆を奮起させたのであります。
結果、背水の陣で挑んだ勝家は大勢の六角家を打ち破り、これが「瓶割り柴田」の異名となって後世に語り継がれている。
銅像は、下写真で右奥が勝家、左がお市の方、中央が三姉妹。
いちおう家族なのに皆あさっての方向を向いているあたりに、柴田家ならではの戦国の悲哀を感じるべきなのでしょうか。
そして、こちらが神社の鳥居。安っぽくカラフルな幟が並べられ、あまり有難みはありません。
発掘調査のできたエリアが小さく、それでいて福井にとっては重要な遺跡なので色々と表現したいことが多かったり、中心市街地の活性化にも役立てたかったり、神社の事情もあったりと、複雑に絡み合ってのことだとは思うのですが、狭いエリアに沢山のものを詰め込みすぎで逆に魅力がわからなくなっている惜しい公園でした。
●福井市HP「北の庄城址・柴田公園について」
●日本の歴史公園100選
(2014年9月訪問)
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