湊川公園は面積約2.3haの近隣公園で、規模的にはずば抜けて大きいということはないのですが、神戸ではもっとも著名な公園のひとつです。
その理由として、神戸を代表する繁華街だった「新開地」に隣接しているため、市民になじみ深いことが挙げられます。

1901年(明治34年)、それまで巨大な天井川として兵庫(江戸時代までの中心地)と居留地周辺(明治以降の中心地)とを往き来する障壁となり、度重なる水害の原因ともなっていた湊川が改修され、旧流路が廃川となりました。この廃川を埋めてつくられたのが湊川公園です。
そして公園よりも下流側では、徐々に地上部に擦り付いていくように堤防が崩されて、その真ん中に道路が通されました。やがて、この道沿いに映画館や芝居小屋、飲食店などが立ち並ぶようになり「新開地」と呼ばれるようになりました。
新開地が大賑わいだったのは大正~昭和30年代までですが、その頃は湊川公園でも多くのイベントが開かれ、市民憩いの場となっていたそうです。

今も地上部とはざっと6~7メートルの高低差があり、公園の下には通称・湊川トンネルと呼ばれる幹線道路、神戸電鉄の湊川公園駅、半地下の商業ビルと地下駐車場などが収まっています。
下の写真は地上部から公園を見上げたところですが、確かにこの高さの天上川が横たわっていては、日々の往来も大変だったことでしょう。

アーケードから続く南側の公園の入口には、1924年(大正13年)から1968年(昭和43年)までここに建っていた「神戸タワー」のイメージを模した元・カリヨン時計があります。
わざわざ元と付けたのは、阪神・淡路大震災で壊れてから時計は止まったままで、モニュメントとしての役割になっているからです。

最近になって周囲が石敷きの広場から芝生・花壇にリニューアルされ、ますますモニュメント色が強くなりましたが、台座部分には時計として働いていた頃のプレートが残されています。

■時計塔について
かつて、新開地は神戸一の繁華街として栄え、その中心・湊川公園には繁栄のシンボルとして神戸タワーがそびえ立っていました。このタワーからは神戸市内がくまなく展望でき、晴れた日には遠く紀淡あたりまで眺望できるというので、東洋一だと神戸っ子のもっぱらの自慢でした。
この度、湊川公園周辺地区活性化の一環として、新開地が往時のように繁栄することを願い、この公園に神戸タワーを模した時計塔を建設しました。
この時計塔は高さ8mの花崗岩石張・アルミダイキャスト作りで、4個のベル(カリヨン)が 備え付けられ時間がくるとメロディーを奏でます。また夜間には、両側の植え込みからライトで時計塔が浮かび上るようになっています。
この時計塔が湊川公園の新しいシンボルとして、カリヨンの美しい音色と共にいつまでも市民の皆様に親しまれることを希望してやみません。
昭和60年6月15日

寄贈 神戸兵庫ライオンズクラブ

湊川公園活性化委員会

もっとハッキリとした震災モニュメントもカリヨンの横手の方にあります。
震災から10年を記念して2005年に設置されたもので、「ここにねむる いのち ここからはばたく」の題字は藤本義一さんの書によるものです。
「阪神・淡路大震災モニュメントマップ」はこちら

また、反対側の横手は、複合遊具と揺れる動物、トーテムポールなどのある遊具広場になっています。

出入口付近を通り抜けて北へと進むと、しばらくは石敷きの広場になっています。
ちょうど石敷き部分の下には道路トンネルが通っており、この部分には樹木植栽もありませんので、公園のほかの部分とは下部構造が違うものと思われます。
下の写真は公園内から道路を見下ろしたところ。

トンネル上部をすぎると、今度は神戸高速鉄道の湊川駅や湊川商店街に繋がる商業ビルが公園の横・下に出てきます。
以前は公園とは物理的に繋がっているだけで、とくに関係性は強くなかったのですが、最近は地域全体のまちづくりの中で「パークタウン Otonari(おとなり)」と名付けられ、公園内でのイベント「手しごと市」などと連携できるテナントの誘致が進められています。

パークタウンと繋がる階段の近くには「殉職消防員之碑」があります。
書の清浦奎吾は、さほど有名ではありませんが、大正の終わり頃に半年ほど総理大臣を務めた人物です。

さらに北に進むと、また石敷きの広場になり、その先は兵庫区役所です。
このあたりでは、夏でも冬でも青空将棋を楽しむ人たちの姿が見られます。

こちらの広場のまわりには、戦前に建てられた楠木正成の騎馬像と聖徳太子の騎馬像が並び、公園のシンボルとなっています。

楠木正成像は、台座だけで5mはあろうかという巨大なもの。
現地にある『大楠公銅像建設記』によれば、1935年(昭和10年)の大楠公600年祭にあたって「公の神威を讃仰すべき形像なきを遺憾とし」神戸新聞社が呼びかけ、約15万人から3万220円48銭の寄付を得て、「銅像の原型は帝国美術院会員 斎藤素巌」などの手によってつくられ、昭和10年5月に除幕式、7月には神戸市に寄贈したものとなっています。

このブログでも、戦前の神戸での楠木正成人気については時折触れていますが(それだけ色々な公園に関係する物件が多い)、そのピークが大楠公600年祭です。
と言いながら、この行事の全体像を把握できていないのですが、楠木正成を祭る湊川神社、礼賛する大日本楠公会(本部:大阪)、関連する寺院や地方自治体などが宮内省や政府と連動・共鳴しながら、日本各地で行事が繰り広げられたものです。
とくに正成終焉の地であった神戸では湊川神社と神戸市が一緒になって、5月24日-29日の間に武者行列を始めとする盛大な行事がおこなわれたそうなので、この銅像の除幕式もそのタイミングで実施されたものでしょう。
もっとも、当時の銅像の位置は、今とは違っていたそうです。

一方、もう一つは「聖徳太子の騎馬像」と書きましたが、阪神・淡路大震災で壊れてしまって今はウマだけになっています。なので現状を正確に述べれば「聖徳太子が乗っていたウマ像」です。
「なぜ神戸に聖徳太子?」と思うのですが、兵庫区の資料などで見ると、この湊川公園の西に広がる会下山一帯が法隆寺の寺領であったことから、明治以降の学校教育などで聖徳太子の人気が高まると、神戸でも太子信仰が広まったそうです。
そんな中、この銅像は1921年(大正10年)、兵庫で事業を営んでいた岡田磯八が建立して市に寄付したものです。
●兵庫区HPより『兵庫区今昔まちかど史 震災で消えた聖徳太子

ちなみにウマ像のまわりには健康器具が並べられている上に、台座の陰は自転車置き場代わりになっていて、すでに正成像ほどの風格はありません。
やはり主なきウマだけでは、ぞんざいに扱われている感があります。

そしてNo.479 御崎公園で見かけた、ビリヤード球やゴルフボールを埋め込んだ足つぼ刺激歩道がここにも。古くなるとゴルフボールは破けてしまうのではないかと思っていましたが、意外にしっかりしています。

などなど、なにかと盛りだくさんの湊川公園でした。

(2014年2月訪問)

【2020年10月訪問】
さて、その後、隣接する兵庫区庁舎が建替えられ、これに伴って湊川公園も一部改修されました。まだ公園の改修工事は途中のようなのですが、すでに大きく変わったのは区庁舎に隣接する北端部分で、区役所が公園側に張り出してきて、その前に大屋根の遊び場が新設されました。

屋根の下には、「ふわふわドーム」と呼ばれるタイプの遊具が設置されています。
遊び場の屋根だけの目的としては過剰に大きいようにも見えますが、イベント時には遊具の空気を抜いて、その上にステージが設営できるようになっているものと思われます。

新庁舎の建物は、公園に対して全く開かれていない不思議な建物です。戸口は設けられていないし窓は少ないしで、21世紀になってここまでオープンスペースとの関わりを拒絶した公共建築も珍しいので、逆にこの壁面を使ってなにかする予定があるのかとも考えてしまいます。

ここらへんにいた青空将棋の男性たちは木陰の方に移り、聖徳太子のウマは姿を消したようです。

楠公像だけは、公園の南エントランス、カリヨン時計の前あたりに移っていました。台座が以前の1/3くらいの大きさになったので、像そのものは見やすくなったと思います。

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