江戸時代の初めには120万石ほどあったのですが、第三代・利常が次男(利次)と三男(利治)とにそれぞれ富山10万石、大聖寺7万石を分封したことで、富山藩がスタートします。
この富山藩の拠点となったのが、富山城です(この場所での城の歴史そのものは室町時代前期に遡るそうですが)。現在は、利次が整えた近世富山城のうち、本丸と西の丸、埋め立てられた堀の一部が富山城址公園となっています。
もっとも、明治以降に県庁や県会議事堂ほかの公共施設用地としてかなり改変されており、今の城址公園から往事の姿を想像するのはけっこう大変です。
まず本丸、西の丸の間にあった堀は埋められて、現在は一繋がりの広場のようになっています。
公園開設以来、広場そのものも何度も改修されていると思われ、曲輪の構造などを偲ばせるものはとくにありません。
広場の一角にある模擬天守のようなものは、富山市郷土博物館。
もともとは戦災復興記念事業の完了を記念して1954年(昭和29年)に開かれた富山産業大博覧会のパビリオンとして建てられたということです。
模擬でもパビリオンでも、50年も経てば歴史的な意味あい、景観的なシンボル性も出てくるということでしょうか、2004年(平成16年)に国の登録有形文化財となっています。
郷土博物館と向かい合わせにあるこれまた模擬天守風の建物は、佐藤記念美術館。もともとは砺波市出身の実業家が中心となって開館したものですが、2002年(平成14年)に建物と収蔵品のすべてが市に寄付され、郷土博物館と一体的に運営されています。
ということで、一つの城跡の中に二つの模擬天守風建物が共存しているという珍しい城跡です。
もっとも、反対側(広場側)から見ると、それほど城っぽくないのですが。
こちらは城跡の北側にある松川。
一見すると城の堀跡のようですが、これは明治になって旧・神通川を付け替えて廃川とした跡に残された流れということで、江戸時代の堀とは関係なさそうです。
名前は松川ですが、今は川端に桜並木が続き、観光遊覧船での川遊びが楽しめます。
ちなみに泊まっていた遊覧船の名は廉太郎Ⅱ世号。小学校1~3年生までを富山で過ごした滝廉太郎に因むものです(父親が富山県庁の書記官を務めていたそうです)。
初代・廉太郎号があったのかなかったのかは知りませんが、廉太郎「Ⅱ世」と言われると途端に安っぽさを感じてしまうのは、昨今のマスコミや芸能界に毒されてしまったからでしょうか。
城址公園からは一本道を隔てたところですが、「滝廉太郎修学の地」の碑もあります。
■現地の解説板より「滝廉太郎修学の地」
近代日本の生んだ代表的作曲家、滝廉太郎(明治12年8月24日生)は、明治19年8月から1年8ヶ月余りの間、父滝吉弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として来任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごした。
富山在住の間、廉太郎は旧富山城内「赤蔵跡」(現在の堺捨旅館の所在地)にあった富山県尋常師範学校附属小学校の1学年に転入学し、同3年の半ばまで在学した。滝廉太郎の一連の作曲の中でも、「お正月」や「雪やこんこん」などは、後年富山の生活をしのんで作曲したものといわれている。わずか23歳10ヶ月の若さで没したが、この間に後世にのこる数々の名曲を作った。
修学碑は、滝廉太郎の生誕100年を記念し、富山県九州人会「おきよ会」が、廉太郎ゆかりの地に建立したものである。
昭和54年9月 富山市教育委員会
城址公園に戻りまして、本丸北側の平坦地は遊具広場になっています。
ヒマラヤスギなどの大木の下に、個性的な大型遊具が幾つか並びます。
また、片隅には旧国鉄の9600形蒸気機関車が保存されています。
屋根がけはしてあるのですが全体的な印象としては放置気味で、塗装などに傷みが目立っていました。
説明の中では、走行距離の細かさが目立ちます。細かすぎて、かえって嘘っぽく聞こえてしまいますが。
■現地の解説板より「機関車のせつめい」
ここに展示されている機関車は9628号でID過熱テンダ機関車と呼ばれているものです。9628号という番号は5000以上がテンダ機関車という規定から9600形式となり、この機関車は29両目の製作ということを示します。ID過熱テンダ機関車は動輪上の重量をシリンダの直径の割合を大きくし動輪の直径を小さくしてあり、馬力は約1000と大きく、その反面速度が低く、水と石炭を別に搭載した炭水車をもっているので貨物列車用としてかつ長距離運転に適しています。
9628号は大正3年10月27日川崎造船所兵庫工場で製作され、貨物列車けん引用として当時国産機関車のホープとして登場し重要され活躍しました。
9628号の走行距離は何んと24,654.247KMで国鉄の使命を全うしました。この機関車の仲間は大正3年から大正13年迄に700両余り製作され中には中国や満州でも活躍した機関車もあります。
この機関車の新製以来の主な働き場所
1 新製~昭和9年8月 直江津機関区配置
2 昭和9年11月~昭和25年3月 高山機関区配置
3 昭和25年4月~昭和45年8月 富山機関区配置
4 昭和45年8月6日 廃車
この機関車のほかにも、富山を代表する公園だけあって、様々な記念碑が置かれています。
目についたものをざっと紹介します。
まずお城ならではと言えば、第二代藩主・前田正甫像。
生来病弱でいつも薬を持ち歩いていたのが、ひょんな事から評判となり「富山の薬売り」の生みの親とされるお殿様です。
■現地の解説板より「富山藩第二代藩主前田正甫(まさとし)像 -売薬を花開かせたお殿様-」
前田正甫 1649生~1706没 【藩主在任1674~1706】
富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。正甫本人は古銭収集家という文化人としての性格も知られています。
正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。元禄3(1690)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです。
この正甫像は、昭和29(1954)年に建てられました。原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ約10mに及びます。
富山市
こちらは「殉職警防団員之碑」。戦前のものだけあって、非常に大きく立派なものです。
■現地の解説板より「殉職警防団員之碑」
警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
昭和15年12月竣工(皇紀二千六百年)木曽川産 水成岩木碑揮毫 富山県知事 矢野兼三(財)富山県消防陪会
ベテラン記念碑勢に混じって、こちらは比較的最近に建てられた戦災復興記念像(天女の像)
■現地の解説板より「戦災復興記念像(天女の像)」
昭和20年、太平洋戦争は激烈の度を加え、8月2日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
約2万5千の世帯、11万人の市民が罹災し、約8千人が重軽傷を負い、2700余人の尊い命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、鎚音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和49年8月1日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
平成20年8月1日富山市
ちょっと露出が悪くて白飛び気味のこちらの写真は、新聞少年の像。
全国あちこちで同じテーマの像を見かけるので調べてみると、昭和30年代の同時期に日本新聞販売協会などが建てたものだそうです。
最近は近世城郭の建物や郭を復元して観光振興や文化財活用を図っていこうとするところが増えていますが(金沢城、熊本城、名古屋城など)、明治以降100年以上も公園としてやってきた歴史も忘れて欲しくないと感じることもあります。
そのなかで富山城址は、近世のお城としての役割を終えた後、その記憶はほどほどにしながら、近代富山の発展の中で多くの人に気にかけられてきたことが伝わってくる、よい城址公園でした。
●富山市郷土博物館 博物館だより38号『解体された城、残された城址』
●富山市観光ガイド「富山城・富山城址公園」
(2013年2月訪問)
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