平安時代の中頃?まで、現在の西宮市の中心部は大きな入江になっており、そこに東の方から角のように突きだした砂州に「角の松原」と呼ばれる美しい松原があったとのことで、万葉集にもこの松原のことを詠んだ歌があるそうです。
古代の西宮の様子(市内の広田神社にあった解説板より) |
さらに、この入江は天然の良港になっており、応神天皇の頃(300年頃)に中国の呉から「漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)」という機織りの技術を持つ女性が渡ってきた時に上陸したという伝承もあります。
その時に、この地にあった大きな松の木の下で休み、その近くの池で糸を染め、布を織ったことから、この池を染殿池と呼ぶようになったと言います。
史蹟の標柱 |
さて、現在の染殿池がこちら。松原公園の中にあります。
松原公園は阪神淡路大震災後の区画整理でできた小公園ですので、それ以前の池の周囲がどのようになっていたのかはわかりませんが、今は小さな公園のさらに片隅に「ひっそりと佇む」という表現がぴったりです(池は神社のものかと思いましたが、西宮が公開している資料を見ると、公園の中に含まれているようです)。
現在の染殿池 |
公園には遊具などはなにもなく、大きな木陰とベンチ、そして防災対応としてポンプ井戸がひとつあるだけです。このあたりで阪神・淡路大震災の後に整備された公園では、災害時にも生活用水を汲み出せるポンプ井戸は定番なのですが、この公園ではソーラー発電によって常時汲み上げている手水鉢?が組み合わさっているのが目新しいです。
ポンプ井戸と手水鉢? |
阪神電車の高架がそばを通っていますが、隣が神社ということもあって、スポッと落ち着いた雰囲気がある公園です。
●現地にあった染殿池の解説板
遠く四世紀のころ、大和朝廷では、国力の充実と発展をはかるため、中国大陸から文物を輸入し、技術者を招いていた。
そのころ、呉の国からむかえられた漢織・呉織という二人の縫工女が、武庫の港に上陸し、このあたりの松原で休息したが、その時に、かたわらの松に身を寄せて、はるかな故国をしのんだという。かってここにあった大きな松の木が、その松だと伝えられ、「漢織・呉織の松」と呼ばれてきた。また彼女らがその松の近くの池で糸を染め、布を織ったということから、この池を「染殿池」というようになったと伝えられている。染殿町、津門綾羽町、津門呉羽町の名は、この伝承によってつけられたものである。(西宮市教育委員会、西宮五ライオンズクラブ)
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