神戸市街地の山手には、東西に細長く連なる中山手通と下山手通という町があります。
明治開港以来の住宅地で、六甲山麓の斜面地にならぶ住宅の間に古くからの学校、教会、寺院などが点在し、独特の雰囲気を持っており、東の方は三宮駅や北野異人館街に近いため商業ビルがたくさん入り込んでいますが、西に行くと住宅地の色が強くなります。
そんな下山手通の西端、8丁目の坂道沿いにあるのが下山手公園です。
公園としてはさほど大きくもない街区公園で、船の形をしたコンクリート製の「壁」遊具(プレイウォールと言います)、砂場、滑り台、鉄棒、大きな藤棚などがあります。
特徴的なのは壁遊具。ミナトコウベらしい船の形です。中央に大きく開く穴は、外輪、または操舵輪でしょうか。
しかし、この公園に船型の遊具があるのには、深い理由もあるようです。
公園の北隅に置かれた「海員協会記念碑」には、この場所には明治~戦前に海員協会(現在の全日本海員組合の前身)の事務所が置かれていたことが記されています。
そして、1945年、それまで高級船員(戦前の制度下における海技有資格者。船長、航海士、機関長、機関士、通信長、通信士)らの加盟団体として労働組合の役割を果たしてきた海員協会が、戦時下の挙国体制の中で海運報国団への組織変えをやむなくされ、所有していた土地や資産も国に供出することとなったため、この土地も寄附したということが書かれています。
この体制化は、ほかの業種の労働組合でもおこなわれたわけですが、とりわけ海員は物資や兵員の輸送に動員されたため、多くの方々が命を落としました。 神戸の海岸通にある「戦没した船と海員の資料館」によれば、軍艦以外の商船や漁船7,240隻の船が沈み、60,331名の船員が亡くなられたことが明らかになっているようです。
●現地の碑文より(抜粋)
海員協会は初め海員倶楽部と言い、明治29年1月15日、帝国高級船員をもって組織され、明治40年社団法人となり海員協会となり、爾来45年、爾餘一切の高級船員を・・・ 最近国際情勢緊迫し、我が帝国は内外共に未曾有の難局に直面せり。今や一億一心高度国防国家を建設し難局の打開に邁進する急務に迫りたり。○に於て協会は海上新体制の設立を促進し日本海運報国団成○○、昭和15年11月30日総会の決議に基づき○○解散を行い、全会員を挙げこれに協力すると共に全資産をも寄附したり。この土地建物も亦其一なり。・・・
昭和16年3月7日
公園には、色々な歴史が隠れています。
(2012年8月訪問)
本ブログでよく参考にしている『日本公園百年史 附表』(日本公園緑地協会)を見ていたら、同じ下山手通8丁目に1927年(昭和2年)に「下山手小公園」という公園が開園したと書かれていました。
返信削除「下山手公園」と「下山手小公園」が同じ公園だとすると、記事中の石碑に書かれた年代よりも開園時期が遡ることになります。
もっとも、このあたりは戦災で焼けていますので、場所と名前を多少変えて生まれ変わったようにも思います。
もう少し調べないとわからない宿題です。
古い記事にコメントさせていただきます。
返信削除このエリアを知っているものです。
地場の方によると、戦時中も空襲を逃れたエリアとのことなので、同一の公園の可能性が高いかと思います。(その代わり阪神大震災ではかなりの被害を受けましたが)公園内には古いレンガ造りの人工物が見ることができます。下山手8丁目町内には、違う公園があった話を聞いてはおりません。
こんにちは、ブログ作者です。コメントありがとうございます。
返信削除本ブログでは、古い記事へのコメントも大歓迎です。
そしてなるほど、そうなのですね。地元に詳しい方の記憶・見解も聞かせていただけると、とても参考になります。
海員協会の事業規模は不明ですが、いまの公園全部が建物だと、現代の事務ビルと比べてもけっこうな規模なので、元は海員会館と旧公園とが並んでいて、建物がなくなった跡に公園が広がった可能性もあるように考え直しました。
レンガ造りの人工物は、この時は気づかなかったので、また機会があれば再訪して確認してみたいと思います。